初めて西表島へ行ったのは2005年7月。その時シュノーケルを体験して、いままで休んでいた感性の扉が再び開いた気がしました。衝撃の体験。外からみえる海と、覗いてみた海は全然違いました。異次元の感覚。色にあふれ、躍動する波。手をのばせばすぐ近くにいるのに捕らえることができない魚たち。それらは日々平均律を通して出会う人達や事象とも似ています。私にとって全てが愛おしい光と陰の世界です。そんなこんなを書いてみたいと思うようになりました。少しずつ少しずつ・・・。 えりさのプロフィール

14歳の夏の午後、雲を見ていて詩が浮かぶ。この時から詩や童話を書き始める。たくさんの寄り道をして現在に至る。染織・パン作り・パーカッションなど興味の範囲が広く趣味とよべるものがない。よく変人扱いされるが実は極めて常識的でやることはかなり古風。えりさの名の由来はアンデルセンの「白鳥の王子」より。

平均律マスターのプロフィール・(有賀雄平)

長野県出身。カメラ会社でエンジニアとして香港勤務。この時代に平均律の構想がうまれる。帰国後、喫茶専門学校に通った後、講師となり、日本で初めての喫茶関係の通信教育を始めた。昭和55年、原宿平均律を開店。平成2年閉店後、13年に学芸大学駅に再開店。本物の味と、都会だからこそくつろげる空間をという考えを、えりさが受け継ぐ。
現在マスターは顧問的役割。気導術師として修練中。

Vol.1 原宿平均律のこと・1
 1980年11月、原宿の「ブティックたけのこ」の隣のビルに、平均律が誕生しました。 私えりさは、当時そこから1分ほどの、クレープ屋で(日本一の売上を誇る)アルバイト を始めたばかり。翌年の4月まで平均律の存在を知りませんでした。4月のある日、 裏道を歩いていて偶然店をみつけ、暗い細い階段を昇ったのが・・・皆さんと出会う きっかけとなりました。人生にたらればはないといいますが、これは運命としか考え られない出来事でした。というのも、私は喫茶店に一人で入ることなぞ初めてで、 しかもあの階段はのちもよく語られたように、「あの先は薄暗くて、一度中に入ったら 出てこれない気がする」と言われた、なかなか雰囲気のある所だったのです。
 店はまだあまり知られていなかったせいもありますが、静かで、カウンターの奥に 座っていたマスターはニヒルな雰囲気でした。後に結婚してアヒルになったとよく言われ てましたが。
 当時の私は・・精神的にとても幼くて、見かけも高校生とよく間違われてました。今では 誰も信じてくれませんが、恥ずかしがりで地味で、静かでした。
 マスターと言えば、とても貧乏で、夢の店をだしたものの、経営が軌道にのっていなくて いつも1、2枚のラスクと珈琲の朝食、あと一食はカップラーメンに魚肉ソーセージを いれたものなんかで、今の私よりやせてがりがりで、顔色が悪く、神経質で、長めのさらさら な髪の結構かっこいい人でした。お互い20年の年月で変わりました!
 この店に通って、沢山の人やマスターから、カップや珈琲紅茶、芸術、音楽のことを 学びました。当時平均律には、広告カメラマンやデザイナー、音楽家がたくさん いらしていたのです。
 それから後に店を手伝うことになりました。その頃から、結構繁盛するようになって 日曜などは階段脇のベンチで待っている人などもいました。
 平均律は珈琲以外、紅茶も質の高いものを出していて、その当時からポットサービスを していました。信じられないことですが、そんな店なのに、食べ物はチョコビスケットケーキ だけで、しかもそれはマスターが作り・・・これが平均律夜の大切な儀式のように、 私が全ての準備をすませ、巨匠有賀が作るみたいな感じで行われていました。多い時は 3台も作っていました。儀式といえば、ウィンナコーヒーを作るのこそ、その言葉通りで シャンパングラスに3層に分かれたこのコーヒーを作る時は、カウンターのお客様達は 息を殺してその工程を見つめ、出来上がった時、マスターが「イェーイ」などというと みんなやっと息をし始める感じで、本当にパフォーマンス好きなマスターでした。人に 見られると緊張するからいやといいつつも、いつの間にか快感になっていたようです。 お客様たちとの交流が深く、初心の、都会の一隅であたたかな光を放つ店でありたいと いう思いは一貫していました。またの機会に、そんな話を。